事件・事故

世田谷・2歳女児餓死事件

報道が生んだ「冷酷な父親」像、朝日新聞が取材と配慮の不十分を指摘

支店長はなぜ死んだか (文春文庫 248-2) 1982/1発行 (著)上前 淳一郎

1975年5月8日、東京・世田谷区の三井銀行本店企画室次長、針ヶ谷博(当時42歳)が、妻の出産留守中、重い身体障害を持つ次女(2つ)を餓死させたとして逮捕された事件。

針ヶ谷は執行猶予付きの判決を受けたが、走行中の電車へ飛び込み、自殺した。

事件発覚までの経緯と報道

1975年5月8日、東京・世田谷区祖師谷の三井銀行本店企画室次長針ヶ谷(当時42歳)が、次女A子ちゃん(2つ)を餓死させたとして成城署に殺人容疑で逮捕された。妻が出産のため、入院中の事件だった。

この日の朝、針ヶ谷はよくA子ちゃんを診てもらっていた昭和医大小児科の医師に「次女が死んだ。相談したい」と電話をし、午後4時過ぎに遺体を抱いて病院にやってきた。

その遺体を不審に思った医師が針ヶ谷を呼び出し、午後5時ごろには「遺体に不審な点がある」と成城署に連絡を入れたことで事件が発覚した。

成城署で事情を聞かれた針ヶ谷は「将来、親に万一のことがあったとき、この子の面倒を誰が見てくれる。心を鬼にして放っておいた」と大粒の涙を流して自供した。

針ヶ谷は1956年に東大法学部を卒業し、三井銀行に入った。この経歴だけ見ても極めて優秀な人物であることがわかるが、これに加えて仕事も出来て、同期入社組の中でも出世が早かった。

逮捕と時期を同じくして、1975年5月1日の内示で、20日付で府中支店支店長への栄転することになっており、この頃は引き継ぎやあいさつ回りをしていた。

そして同日、5月1日に妻(当時37歳)が女児を出産した。出産予定日は5月16日であったことから、半月早まったことになる。

妻の入院中、針ヶ谷が子供たちの面倒を見ることになった。針ヶ谷は小学6年の長女に「絶対に寝室には入るな」と言いつけて出勤し、夜はベビーベッドのそばでA子ちゃんと一緒に過ごしていた。

ちなみに、逮捕時の新聞記事には次のような文が並んでいた。

「2歳になる知恵遅れの幼女を寝室のベビーベッドに十日間も閉じ込めて餓死させた父親が8日夜、東京・成城署に殺人の疑いで緊急逮捕された」

「(障害のため)いまだ両親の区別もつかず、Hは悩んでいたという」

「先月29日からA子ちゃんを2階寝室のベビーベッドに入れたまま水も食事も与えずにいた」

「3、4日目にはチューチューと音を立てて指をしゃぶっていたが、心をオニにしてほうっておいた」

「A子ちゃんはホホがこけ、目が落ちくぼみ、あばら骨が浮き出、しゃぶり続けていた右手の親指は皮膚がはがれ、その悲惨な姿に捜査員も言葉を失ったという」

「Hは入院中の妻にA子ちゃんの死を知らせたと自供しているが、妻としても夫は昼間勤めがあり、長女も学校に行き、幼いA子ちゃん一人しか家にいないとなれば、当然親類に頼るのが世間一般の考えだが、『共犯関係があるかどうかは今後の調べに待つ』と同署は言っている」

新聞各紙の事件報道記事本文中より引用

これらの新聞記事から、本事件について総括するならば、「父親が障害を持つ子供を放置し、餓死させた」というもの。餓死は長く苦しむ死に方であり、記事からはどこか残虐な殺し方をした「冷酷な父親像」が浮かび上がるものであったと言えるだろう。

判決とその後

1976年1月27日、針ヶ谷は東京地裁で懲役3年執行猶予5年の判決を受けた。

この事件の続報が掲載されたのが、8ヶ月後のことだったが、同じ日の夜、針ヶ谷が神奈川県小田原市内の小田急富永第5踏切で飛び込み自殺をした。判決後、自宅には戻らなかった。

翌日、28日夕刊のHの自殺を報じる記事には、次のような「妻の言葉」が掲載された。

「娘は昨年4月29日からこん睡状態で、殺人なんてとんでもございません。私たち夫婦は事実がわかれば、必ず無罪になると固く信じていました。きのう午後3時前のテレビニュースで有罪判決を聞き、主人は帰ってこないような気がして不安でした」

「主人は成城署に呼ばれ、殺人の令状を見せられてびっくりした、といっておりました。『殺人』と聞き返したら『とぼけるな。お前のようなヤツは人非人だ。計画的な犯行だろう』と刑事さんにいじめられ、何をいってもだめだと思ったそうです。公判中、有罪なら生きている意味がないなあ、といっていましたが、本当になるなんて・・・・」

朝日新聞1976年1月28日夕刊より引用


疋田桂一郎氏の抱いた疑問

この言葉を疑問に思った朝日新聞・疋田桂一郎編集委員は、再び事件を調べ直した。疋田氏は社会部出身で1973年まで「天声人語」を担当していた人物である。

疋田編集委員は1976年9月に東京本社編集局報に「ある事件記事の間違い」と題するリポートを書いた。
(後の1981年1月に、上前淳一郎著「支店長はなぜ死んだか」として出版されている)

新聞が「知恵遅れ」と書いたA子ちゃんの障害も実はかなり重いもので、人と物の区別がつかず、言葉を理解できない。4、5mほどよちよち歩きをするものの、自分で食事をとることができなかった。裁判で弁護人が「植物人間」と形容し、さらに4月29日からこん睡状態だったことを合わせて考えてみても「ベッドに閉じ込めて」という表現は不適切だった、とするものであった。

また、Hが裁かれた法廷で裁判長は「被害者は当時、食事を受け付けない拒食症にかかっていたと認められ、食事を与えなかったことが死因とは思わないが、医師に診せていれば健康を回復したはずであり、あえてそれをせずに放置した点に殺意が認められる」としてHの苦悩を認めたうえで、有罪判決を出したことを挙げた。

つまり、「水も食事も与えずに~」という記述は正確なものではなく、「A子ちゃんは食事を受け付けず、また欲求もしないというような状態」であったという。ちなみに、このような症状は事件の3か月前にもあったといい、この時は医師に診せようとしたが、その時に食事をとりはじめたということであった。

体は衰弱していくものの、泣き叫ぶこともなく眠り続ける子供をHはただベビーベッドのそばで見つめていた。頼るべき妻もこの時は家にいなかった。もちろん裁判長の指摘した通り、病院に連れて行くという選択肢もあったはずで、ちょうど連休をまたぐ時期とは言え、休みが明けて病院に向かうということもなかった。両親に知らせるということもしていない。この点が裁判では「殺意」とされたのだ。

ちなみに、その理由について、Hはこう供述している。

「A子を医者に診せれば医者が手当をしてA子の生命が助かってしまうことになる。それではA子にとって本当に幸福なことではなく、このまま自宅において死なせてやろうと考えた」

5月末、保釈となって1か月ぶりに自宅に戻ったHは、初めて自分の事件について書かれた新聞や雑誌を読んだ。裁判での妻の証言では、それらの報道を目にしてからのHはびっくりして、すべての力が抜け、生きる力を失ったようだったという。

これも妻の談話であるが、「警察はいたし方ないが、マスコミはわかってくれている、と期待しているのに」「自分の言葉ではないものが、自分の言葉のように書かれている」と話していたとのことである。

疋田氏は「この記事をかいた記者には、まことに酷なことであった」としながらも、この記者が警察の発表のみで記事を書き、裏付けの取材をしていなかったことを問題提起している。

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