ライフルで胸を狙撃。人質事件で初の犯人狙撃により解決した、国内初のシージャック事件。
1970年5月12日、広島市の宇品港で、ライフルで武装した川藤展久(20歳)が、今治行き定期客船「ぷりんす号」をシージャックした。
男は銃砲店で奪ったライフル銃を乱射し、その際に銃で撃たれた警官1名が重傷、民間人1名が軽傷を負った。
翌朝の13日午前9時51分、船から約40m離れた防波堤の陰にいた大阪府警の狙撃隊員(当時41歳)が甲板にいた川藤を狙撃し、犯人が死亡した。
事件の経緯と動機
1970年5月12日、広島市の宇品港で、若い男がピストルを撃ちながら出港間際の今治行き定期客船「ぷりんす号」に乗りこんだ。船は乗員乗客を乗せたまま出港し、シージャック事件が発生した。
2ヶ月前には赤軍派による「よど号ハイジャック事件」が起こっていたが、シージャックの犯人はどうやら過激派ではないようだった。男は警官を刺して逃走中だった元大工・川藤展久(20歳)と判明した。
川藤展久の生い立ちと狙撃されるまでの経緯
川藤展久は岡山県倉敷市で、6人兄弟の三男として生まれた。父親は船員、母親は新興宗教信者で家は留守がちだったという。
川藤は中学に1年通っただけで行かなくなり、広島、東京など全国を転々と放浪していた。その間、パチンコ屋の店員、暴力団の使い走りのようなことをやっていた。
事件の3年ほど前に広島で工員となったが、20件余りの窃盗事件を起こし逮捕され、69年春に出所してからは定職に就いていなかった。
事件前、川藤は広島県三原市のパチンコ屋で知り合った少年A、Bと福岡市内で車を盗み豪雨のなか逃走していた。
5月11日、3人は広島方面に向かっていたが山口県の国道2号線で検問にあい、逮捕された。3人は盗難車とパトカーに分乗して連行されたが、その途中、盗難車に乗せられていた川藤とAは隠し持っていた猟銃を警官に突きつけ、ナイフで警官の胸を刺し2人は逃走した。
川藤とAの2人は宇部市で洋服を買い服装を変え、「土地鑑のある広島で一稼ぎして、大阪に向かおう」と相談した。
12日昼、広島市内の山中で2人は発見され、Aが逮捕される。川藤は通りかかった軽トラックの運転手を脅して人質にして、さらに追跡してきた警察と鉢合わせになり、警官から拳銃と実弾4発を奪って逃げ続けた。
午後3時40分頃、川藤は市内の銃砲店を訪れ、店員を脅し、ライフル2挺、散弾銃1挺、実弾380発を奪った。宇品港に現れたのはその後である。
川藤展久の犯行の詳細
川藤は「どこでもいいから大きい町へ行け!」と命令、給油のために「ぷりんす号」は瀬戸内海の向う側にある松山港に向かった。
一方、事件を受けて広島県警は警官1000人を動員し、呉港など沿岸に配備。また警備艇、巡視船、ヘリコプターなどが「ぷりんす号」を追跡開始。川藤は接近する船に発砲を繰り返した。
船が松山観光港に近づくと、川藤は船長を通じて、人質の解放を条件に燃料を満載した船を要求した。しかし、松山西署はこれを拒否し、ぷりんす号に補給をすることで、乗客を降ろさせることを提案し、川藤はこれをのんだ。
このとき、警察は川藤の説得を続けながらも、ひそかに狙撃隊を手配していた。
13日午前0時40分、33人の乗客全員と乗員4人が解放された。船に残るのは船長以下7人の乗組員である。ぷりんす号は再び出港した。
同日、深夜の海上において父親が説得を試みたものの失敗に終わった。
銃弾が打ち抜いた犯人の胸
13日午前8時50分、川藤は警察と決着をつけるため、ぷりんす号を宇品港に戻らせた。
川藤はすでに逮捕されたA、Bを連れてくることを要求し、ライフル銃で威嚇射撃を繰り返した。発砲は説得を続けていた父親にも向けられた。
午前9時51分、船が宇治港に到着。説得に応じずライフルを乱射する川藤に対し狙撃命令が下りたため、船から約40m離れた防波堤の陰にいた大阪府警の狙撃隊員(当時41歳)が甲板にいた川藤を狙撃した。
川藤の死亡とその後
「死んでたまるか・・・・もういっぺん・・・」、倒れこんだ川藤がそう呟いたのを、傍にいた船長が聞いている。
銃弾は左胸に命中しており、搬送先の病院で11時25分に死亡した。
この犯人銃撃の様子や、川藤が撃たれて崩れ落ちる瞬間などはテレビで全国中継されていた。
父親は「親として、死んでくれてせめてもの償いができた。警察に抗議するつもりはない」と語った。
シージャック事件自体、日本の犯罪史上初めてのことだったが、人質事件での犯人射殺も初のケースだった。川藤の意図はもう分からないが、逃亡が続き、どこへ逃げて良いかわからなくなって、前述の通り、先に起こった「よど号ハイジャック事件」を思い出したものと見られている。
事件後、札幌の弁護士たちが、狙撃した警官を告発したが、広島地検は「警職法による正当行為」として不起訴とした。