父親の死、母親の借金…新聞配達に勤しむ少年が母親を金属バットで撲殺、その後再犯し死刑に
2000年7月29日午後9時ごろ、山口県山口市の自宅で、新聞配達店勤務の少年A(犯行時16歳)が、母親の頭部を金属バットで殴って殺害した。
きっかけとなったのは、少年の女友達の携帯電話に母親が無言電話を掛けたとして口論になったことであった。
少年は父親の死後、母親と感情の行き違いが多くなり、母親が借金の使途や額などの説明を求めてもきちんと答えてくれないことや、前年に始めた新聞配達のアルバイト代を母親が管理していたことなどに不満を募らせていたという。
少年が無言電話の件について問い詰めても母親は認めず、借金問題でのあいまいな対応と相まって感情的になって犯行に及んだとのことであった。
7月31日の読売新聞・東京版夕刊では『「母思い、まじめな子」なぜ… 親の借金、悩み漏らす』という見出しで記事が掲載されるなど、事件について少年に対して同情的な見方が強かったため、その後の報道は沈静化した。
しかし、事件から5年後の2005年11月17日、22歳になった元少年Aは「大阪姉妹放火殺人事件」を起こし、また、この事件についての取り調べにおいて「(母親の殺害時に)返り血を流すためシャワーを浴びたら、射精していたことに気づいた」「母親を殺したときの感覚が忘れられず、人の血を見たくなった」などと供述したことから、快楽殺人者の代名詞的存在として取り扱われることとなった。
事件の経緯と動機
父親の死、母親の借金と交際
近所の人の話によると、少年は両親と祖母の四人暮らしだった。
父親は酒癖が悪く、母親や少年に暴力をふるっていたが、事件の5年ほど前に肝硬変で亡くなっている。
その後、祖母が山口市内の老人福祉施設に入り、母親と二人暮らしになった。中学一年のころは好きな卓球部で活躍していた。また、家庭では家事を手伝い、月に一度は祖母の見舞いに出かけていたという。
ところが、中学二年になる頃から学校を休みがちになり、三年生時には三分の二近くを欠席、自宅に引きこもりがちになった。
学校では友人も少なく、その寂しさを紛らわすためか、中学一年のころは、クラスメートのからかいに対し、時々爆発するように、喧嘩をすることもあったという。中学校時代の担任教諭は「母親思いの優しい子だった。家の猫をかわいがっていた。母親も彼のことを、よく心配し、仲のよい親子だったと思う」と話し、また、少年をよく知っている高校生は「学校で見かけても、他の人たちと親しくしている様子はなかった」と取材に答えている。
中学卒業前、少年は進路について「就職希望」としており、中学校側は定時制を勧めようとしたが、ほとんど登校してこなかったため、十分な指導ができなかったという。また、事件の前年である1999年初めには「きちんとしたところに就職したい」と就職活動をしたが、不採用になり、悩んでいた様子だったという。
その後、1999年9月から3か月間、少年は新聞販売店のアルバイトとして朝刊の配達に勤めるようになった。
「正社員の仕事をしたい」として一旦は店を辞めたが、2000年2月には復職し、夕刊も配達するようになった。
給料は約10万円で、勤め先の新聞販売店によると、無駄遣いする様子もなく、パンを買ってきて食べたりしており、また、「仕事ぶりはまじめで、目上の人への話し方など丁寧だった」と取材に答えている。
さらに、近所に住む女性は「最近は髪を金色に染めていたが、会えばきちんとおじぎをしてあいさつするおとなしい子だった」と取材に答えており、周囲の人たちから少年は「新聞配達で家族の生活を助ける真面目な青年」として見られていた。
一方、母親は近くのスーパーでパート店員として勤めていたが、消費者金融や近所の人たちから多額の借金をしており、家賃や水道料金を滞納することがあった。また、生活保護を申し込んだこともあったが、認められなかったという。県警の調べによると、母親には金融機関などから四百万円余りの借金があったことが明らかになっており、利子の返済などで家計は相当に厳しかったとみられる。
なお、母親は借金について、顔見知りの元民生委員など、周囲に相談することはなかったという。
また、母親には交際相手がおり、事件前、少年は友人に「母親が最近、たびたび家を空ける」「自分は邪魔者」などとこぼしていた。さらに、「今度、家を空けたら殴るかもしれない」などとも話しており、母親の交友関係を好ましく思っていない様子だったという。
特に父の死後には母親との隔たりは大きくなっており、借金の使途や額が不明であることや、少年のアルバイト代を母親に管理されていたこと、さらに、母親の交際相手の存在などに対して、少年は鬱屈するばかりであった。
事件当日、母親殺害後も出勤
事件が起きたのは2000年7月29日の夜だった。
この夜、少年と母親は少年の女友達の携帯電話に母親が無言電話を掛けたとして口論になった。
少年が問い詰めても母親が認めず、借金問題でのあいまいな対応と相まって感情的になった少年は、母親の頭部や胸などを金属バットで殴り、殺害した。
少年はその後、返り血を洗い流すためにシャワーを浴びたが、その際、少年は自分が射精していたことに気が付いたという。(大阪姉妹放火殺人事件についての取り調べ時に供述)
そして、少年はいつも通り新聞配達の仕事を行った。
この日、母親は勤務するスーパーに出勤予定であったため、出勤してこなかったため店長が電話をかけたところ、男の声で「もう出た」という返事が返ってきたという。
その後
日が明けた7月31日の午前1時ごろ、少年は自ら「母親を殺した」と110番通報した。これを受け、山口署によって少年は緊急逮捕された。
8月2日、山口県弁護士会の要請を受けた弁護士が山口署で少年に接見した。
接見時間は午前10時55分から25分間。弁護士が自己紹介し、弁護士制度を説明した後、差し入れや会いたい人を尋ねると、少年は差し入れは不要で、会いたい人もいないなどと答え、「弁護士は必要ない」と話したという。
理由を聞くと「ぼくはどうなってもいい」と答え、弁護士が諭しても、「ぼくはどうなってもいい」と繰り返して席を立った。少年は終止、無表情だったという。
接見後、弁護士は「事件や心情について会話できる状況にはない。かたくなに心を閉ざし、他人とかかわろうとしない印象を受けた。事件を深刻に受け止め、心の傷が深いようだ」と話した。
また同2日の段階で、山口県警の捜査によって、少年の母親が男性と交際していたことがわかっており、少年が事件前、親しい友人に「母親に再婚話が持ち上がっている」などとも話していたこともあり、母親の借金だけでなく、母親の交友関係も事件の誘因になった可能性があるとみて捜査を続けた。
2度目の接見は、翌3日に行われた。
少年は前日同様、弁護士選任や接見について拒んだが、警官に促されて接見の場に出てきた。
弁護士選任を勧めると、「いらない」と話し、理由を「自分のことは自分で決めたい。自分の意思でつけるつもりはない」と話したという。また、親類の男性が少年に会いたがっていると伝えると、「僕にも会う必要がある」と答え、差し入れについては「手紙を書きたいので便せんと筆記用具が欲しい」と答えたという。
その後、県警の取り調べに対し、少年は犯行動機について、「五年前に父が亡くなる前から母の態度に不満があった」「母親に借金の額や使途を尋ねたが、はっきり教えてくれなかった。口論し、かっとなった」などと供述した。また、少年はふだん父親に遊んでもらうことが多く、「母が父につらく当たることが不満だった」と話したという。
8月21日、山口地検は、少年を殺人容疑で「刑事処分相当」の意見書を付けて山口家裁に送致した。同家裁はこれを受け、少年を二週間の観護措置にする決定をし、山口少年鑑別所に収容した。
9月14日、山口家裁は「動機に酌量の余地があり、計画的な非行ではなく、家庭環境に大きく起因していることなどを考慮すべきである」また、「長期間の矯正教育を受けさせるのが適当であり、年齢的に見ても矯正は充分可能」として、中等少年院送致を決定した。
同14日の審判に於いて、少年は「客観的に見て許されないことをしてしまった。母が抱えていたものをもっと説明してくれていれば、違う展開になったかもしれない」「裏切られるのが怖くて友達ができない。性格を変えたい」「母親との会話が少なく、自分の相手をしてくれれば違ったことになったかもしれない」などと話した。
わずか3年2か月での出所、出所後2年での再犯
「長期間の矯正教育を受けさせるのが適当であり、年齢的に見ても矯正は充分可能」として、中等少年院に送致された少年であったが、少年は岡山少年院を2003年10月に仮退院した。
事件からわずか3年2か月での「出所」である。
ちなみに少年院の仮退院に関して、精神科の医師が更生に疑問を呈する意見を出していたのだが、岡山県公安委員会はなぜか許可を出していた。
少年は仮退院後、パチンコ店に住みこみで働いたが、友人を介して不正でパチスロの大当たりを出す「ゴト師」の元締めと知り合ってグループに加わり、そうした裏家業で生活をしていくようになった。
2005年3月、そうした不正行為が発覚し、窃盗未遂容疑で逮捕され、起訴猶予となった。その後もゴト師を続けようとしたが、仲間から「仕事ができない」と見捨てられつつあり、「自分には向いていない」というようなことを言いはじめた。
そして、事件から5年後の2005年11月17日、22歳になった元少年A・山地悠紀夫は「大阪姉妹放火殺人事件」を起こした。
出所後、わずか2年後の再犯であった。
2006年5月1日、大阪地裁で初公判が開かれた。山地は起訴事実を認め、少年院時代に精神科医に対して「法律を守ろうとはそんなに思っていない」と話していたことが明らかにされた。
公判での山地は、検察官、弁護人の質問に「わからない」「黙秘する」「答えたくない」と繰り返した。また、法廷でうすら笑いを浮かべることが多かった。
5月12日、公判で犯行の理由について「人を殺したいという欲求があった」と供述。また、母親殺害とのつながりについて「自分では判断できない」と答えた。
6月9日から10月4日まで、約4ヶ月間にわたり山地の精神鑑定が実施された。
10月23日、地裁・並木正男裁判長は「被告は犯行当時、善悪を区別する能力や行動制御の能力は十分保たれていた」と完全責任能力を認める精神鑑定書(鑑定人は岡江晃・京都府立洛南病院長)を証拠採用した。この鑑定は「人格障害であり、アスペルガー障害を含む広汎性発達障害には罹患していなかった」とするものであった。
弁護側は少年院時代の医師の診断などを根拠に「対人関係の構築が困難な発達障害の疑いがある」と主張していたが、裁判長は障害の罹患を否定し、「犯行当時も現在も知能は正常で、社会生活能力も保たれている」とした。
10月27日、第10回公判が開かれ、法廷には約2万3千人分の、死刑を求める嘆願書が提出された。これは殺された姉妹の友人たちが集めたものであったが、これを見せられ「どう思う」と検察官に問われても、山地は「何も」としか答えなかった。
10月31日、殺害された姉妹の遺族は意見陳述で、「被告に2人と同じ苦しみを与えたい」と述べ、極刑を求めた。
11月10日、検察側は「犯罪史上、極めて凶悪で冷酷な犯行。極刑以外の選択はありえない」と死刑を求刑した。
12月13日、並木正男裁判長は求刑通り死刑を言い渡し、判決後の説論では「遺族の悲しみはどれほどかをもう一度考え、幼いころの人間性や家族との温かい交流を思い起こし、遺族の苦しみの万分の一でも理解してほしい」と話した。
2007年5月31日、山地は控訴を取り下げ、死刑が確定。
母親を殺してから9年、そして、死刑が確定してから2年後の2009年7月28日、死刑が執行された。
同日には、同大阪拘置所に於いて、「自殺サイト殺人事件」の前上博の死刑が執行されている。