事件・事故

良栄丸遭難事件

実在した幽霊船「良栄丸遭難事件」航海日誌に記された恐るべき遭難の軌跡

1926年12月、千葉県千葉市銚子沖で船員12名を乗せた漁船「良栄丸」が遭難し、翌年の1927年10月31日に発見された事件である。

事件の経緯と詳細

遭難していた「良栄丸」は、カナダ西海岸のバンクーバー島付近を通過したアメリカ貨物船「マーガレット・ダラー号」によって発見された。

「良栄丸」は発見された時、船体はボロボロに朽ち果て、甲板にはミイラや足のない遺体が転がり激しい異臭が漂っていた。

また、船内には頭蓋骨が砕かれた白骨死体とミイラが横たわっていた。さらに、船室奥の部屋には、おびただしい量の血痕が染み付いており、船尾の司厨室では、海鳥の白い羽が至る所に散らばっていて、コンロの上にあった石油缶の中には、人の腕が入っていた。

船内には食料も水もない状態で、エンジン機関部は全て破損していた。「良栄丸」は乗組員12名全員が死亡、または行方不明とされたが、不思議なことに船内には9名分の遺体しかなかった。

船長室から見つかった3冊のノートには、漁船「良栄丸」が出航してから約1年の間で、この船に何があったのかが書かれており、それは目を疑うような内容だった。

重量は19tで1本マスト。船主は和歌山県の藤井三四郎、船長は三鬼時蔵、機関長は細井伝次郎、乗組員は12名。

「良栄丸」が神奈川県三崎港を出航したのは1926年12月5日で、発見されたのが翌年の10月31日なので、約1年間漂流していたことになる。

さらに、船には12名中9名の遺体しか発見されておらず、現地の医師が最後に生き残った2名の間で食人が行われた可能性を示唆した。

残された日記

1926年12月5日、神奈川県の三崎漁港を出航。銚子の沖合を目指すつもりが、天候が悪く銚子港を目指す。

12月6日、銚子港へ一時入港。

12月7日、銚子港を出発。以後、調子沖で漁に励む。

12月12日、悪天候の強風に煽られ、突如としてクランクシャフトが折れ航行不能に。そこに西から強い季節風が追い討ちをかけ、船は沖へ沖へと流される。

12月15日、16日の2日間に「紀州船に似た20tくらいの船」、「東洋汽船会社の船」、「同行の肥州船」の3隻を発見。大漁旗を揚げ、火を炊いて大騒ぎしたが、しかしいずれも「良栄丸」に気付くことなく去った。

12月27日、カツオを10匹釣る。

1927年1月27日、外国船を発見、だが応答無し。水がなくなった。雨が降ると桶に雨水を貯めて、これを飲料水とした。

2月17日、いよいよ食糧少なし。

3月6日、食糧が一つ残らず底をついた。恐ろしい飢えと死神が徐々にやってきた。

3月7日、最初の犠牲者が出た。機関長、細井伝次郎は「一目見たい。日本の土を一足踏みたい」と呻きながら亡くなった。全員で水葬に処す。

3月9日、大きなサメが釣れた。しかし、直江常次は食べる気力なく痩せ衰えて亡くなった。水葬に処す。

3月15日、これまで航海日誌をつけていた井沢捨次が病死。変わって松木源之助が筆を執る。井沢の亡骸を水葬するのにやっとのあり様。全員、顔は青白くヤマアラシの如くヒゲが伸び、フラフラと亡霊そっくりの歩き様は悲し。

3月27日、寺田初造と横田良之介の二人は突然うわ言を発し、「おーい富士山だ。アメリカに着きやがった。ああ、虹が見える。」等と狂気を発して、左舷の板にガリガリと歯を食い込ませて悶死する。いよいよ地獄の底も近い。

3月29日、メバチ1匹を吉田藤吉が釣り上げたるを見て、三谷寅吉は突然として逆上し、斧を振り上げるや、吉田藤吉の頭を滅多打ちにする。その世にも恐ろしき光景にも、皆立ち上がる気力もなく呆然。残されたるものは皆、野菜の不足から壊血病となりて、歯という歯から血液したたるは、皆、妖怪変化の凄まじき様相となる。ああ、仏様よ。

4月4日、三鬼船長は甲板上を低く飛びかすめる大鳥を蛇の如き速さで手掴みに捉える。全員、蟻の如くむらがり、羽をむしり取って生きたまま大鳥をむさぼる。血がしたたる生肉を食うは、これ程の美味なる物は無しと心得たい。これも皆、餓鬼畜生となせる業か。

4月6日、辻門良治、血反吐を吐きて死亡。

日記の続き…ついに、食人へ

4月14日、沢山勘十郎、船室にて不意に狂暴と化して発狂し、死骸を切り刻む姿は地獄か。人肉食べる気力あれば、まだ救いあり。

4月19日、富山和男、沢山勘十郎の2名、料理室にて人肉を争う。地獄の鬼と化すも、ただただ生きて日本に帰りたい一心のみなり。同夜、2人とも血だるまにて転げまわり亡くなる。

5月6日、三鬼船長ついに一歩も動けず。乗組員12名のうち、残るは船長と日誌記録係の私(松本源之助)のみ。2人とも重いかっけ病で、用を足すにも動けず垂れ流すは仕方なし。
(※斧を振り上げた三谷虎吉に関する記載なし)

5月11日、周りには何も見えない。甘い砂糖一粒舐めて死にたし。友の骸はドロドロに腐り、激しい死臭のみがあり。白骨のぞきて、この世の終わりとするや。

日記はここで切れているのですが、船長だった三鬼は遺書を残していた。

船長の遺書

私のために、あなたたちに苦労をさせました。誠にすみません。
あと、12、3年は生きたかった。2人の子供を頼みます。
『きくお』が大きくなりても必ず必ず漁師にだけはさせぬよう頼みます。
『かつえ』、お前の学校の卒業式を見ずに『とったん』は帰れなくなりました。
情けない。
お前はこれからも賢くなりて奉公もしたり、母の足しになりてやってくだされ。
頼みます。賢く頼みます。
『きくお』、『とったん』の言うことを聞きなさい。
大きくなりても、漁師はできません。賢く頼みます。
母のいうことを聞きなされ。

その後

アメリカの貨物船「ウェスト・アイソン号」の船長から

1923年12月23日(「良栄丸」のマストが折れ遭難してから11日後)、シアトルから約1000km離れた太平洋上で、波間を漂う木造船を発見したが救助信号を送っても返答がないので近づいた。

しかし「良栄丸」の甲板に立ってこっちを見ていた船員は誰1人答えずに馬鹿らしくなって引きあげた。

実は、この時の話が「良栄丸」に残されていた日誌には記載されていない。

それどころか別の日付で救助信号を送ったのに気づかれなかったと記載されている。

何故「良栄丸」は救助を断ったのか、何故「ウェスト・アイソン号」との遭遇のことが日誌に残されていなかったのか、未だに謎に包まれている。

偶然なのか必然なのか…良栄丸の運命

そして、「良栄丸」の遭難事件からおよそ35年。この「良栄丸」に最大の謎が降りかかる。

1960年1月12日、「第二良栄丸」と名付けられた漁船が、静岡県の沼津を出航したのち、1月21日に遭難した。

生き残った乗組員は自力で尾が小笠原諸島の無人島にたどり着くが、全乗組員12名のうち9名が助かったそうだ。

同じ名前の船で同じ数の乗組員のうち、同じ数の行方不明者となり、前回の遭難事件と奇妙に一致した。

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