1931年(昭和6年)8月27日、豊多摩郡千駄ヶ谷町原宿、鉄道定期乗車券販売業「丸菱商事」の主人・後藤忠弘さん(60歳)が就寝中に何者かに殺害されるという事件が起こった。
内部犯行と見られ、妻モト(当時54歳)と、その愛人で同社の番頭・長谷川繁(当時35歳)が逮捕されたが、死刑が確定したモトに対し、長谷川は無罪を言い渡された。
事件の経緯と詳細
これは1931年(昭和6年)8月、豊多摩郡千駄ヶ谷町原宿で起こった事件である。当時、千駄ヶ谷はまだ東京市に編入されていなかった。
8月27日夜、原宿にある鉄道定期乗車券販売業「丸菱商事」の主人・後藤忠弘さん(60歳)が就寝中に何者かに殺害されるという事件が起こった。
後藤さんの商売は定期販売と言っても、定期券の購入資金を用立て、月割りで返済させる一種の金融業である。「バス屋」と呼ばれたこの商売は、貧しい時代だからこそ成り立っていたものだと言える。
定期は「パス」だが、この頃は一般的に「バス」と呼ばれていた。同様に「デパート」を「デバート」、「ブロマイド」を「プロマイド」と言っていた。まだ呼び方が定着しきっていなかったためだろう。
忠弘さんは妻モト(当時54歳)と奥座敷の8畳間に一緒に蚊帳の中で寝ていたとき、金づちのようなもので頭部と顔面5ヶ所を殴られていた。モトが目を覚ました時、暗闇の中に犯人らしい人影が蚊帳の中に立っていたという。モトが慌てて起き上がると、犯人は首を絞めて来たが、「三郎!三郎!お父さんが、お父さんが!」と大声をだすと逃走した。
この時、次男・幸男さん(当時30歳)をはじめとして、三男・三郎さん(当時27歳)、事務員・林信雄さん(当時23歳)、外交員・高橋五郎さん(当時25歳)、番頭の長谷川繁(当時35歳)が駆けつけたが、誰も犯人の姿は目撃していない。
忠弘さんは瀕死の状態でも、「なんでもない。なんでもない」と繰り返し、犯人のことは一切触れず、「医者、水」と言いながら明け方に死んでいった。これは死の淵にいながらも犯人を庇ったものと見られるが、このことがこの事件の謎をさらに深めることとなった。
内部犯行説
後藤家の長男はすでに病死している。親戚にあたる番頭の長谷川は普段から主人に目をかけられていた。このほかバス屋には外交・集金をする15名ほどが出入りしていた。
事件直後、後藤家では事務室に使っていた玄関横の洋間が開いていたが、他は戸締りされていた。そうすると犯人が逃走したのは洋間の窓からしか考えられないが、窓の下の土に足跡などはなく、植木のクモの糸も切られていなかった。室内は物色された形跡はなく、現金も無事であった。
凶器と見られるハンマーは台所の縁の下から発見されたが、きれいに洗われていた。これらのことから内部犯行説の線はかなり濃いものと見られた。
当局は、事件当夜、同じ屋根の下で寝ていた人間をまず調べた。後藤家では林さんと高橋さんが後藤夫妻の寝室の奥の4畳半、長谷川は玄関の4畳半、離れの8畳間には次男三男、女中部屋には塚本ツネさん(当時23歳)が眠っていた。
このうち林さん、高橋さん、ツネさんは「関係なし」として28日午後までに釈放された。
疑いはまず、幸男さんに向けられた。元々素行が悪く、家出していたが7月に長谷川が連れ戻して来ていたのである。両親も次男ではなく、三男・三郎さんを溺愛していた。モトが犯人に襲われた時、幸男さんではなく三郎さんの名前を呼んでいる。だがまず現れたのは幸男さんであった。直後、「窓に手を触れてはいけない」と家人に言っていたが、これは自分の犯行をカムフラージュしたものと見られたのである。
その一方で、モトにも良からぬ噂があった。そのためモトと三郎さんの共犯説に傾く。
幸男さんもかつては悪いことをしたが、連れ戻されてからは心を入れ替え真面目に家業を手伝っていた。事件の数日前には集金も任されている。
そのことでモトが幸男さんに家督を継がせまいと、三郎さんをそそのかして殺害させたのではないかと見られた。
共犯者がいるとされたのは、遺体の傷がいずれも致命傷であり、一撃目を受けた後も抵抗したであろう忠弘さんを殴り続けるのは、女1人では無理とされたからである。
家庭内不倫
モトが疑わしい理由はまだある。
忠弘さんは女癖が悪く、20年前から芸者を愛人として囲っていた。毎月100円以上は与えていたという。ちなみにこの当時、小学校教員の初任給が45~55円ほどであった。
事件の1ヶ月前、モトはこの芸者のところに出向き、500円の手切れ金を渡している。だが芸者の母親の方がこれに納得せず、家に乗りこんできた。
「月々100円や150の手当がなんだ。猫の仔1匹養えやしない。500円ばかりの半端な金で、はいそうですかと引っ込むような腰抜けじゃ、(関東)大震災で生き残れなかったろうよ!」
この時、忠弘さんが間に入ることはなかった。
モトが疑わしい3点目の理由は、「モトと長谷川が出来ている」というものである。これは三郎さんの供述から明らかとなった。
長谷川は大正11年、故郷の福島から東京の川崎銀行に転任となった。この銀行の重役だった忠弘さんが呼んだのである。寮も当時の後藤家の真向かいにあった。長谷川は後藤家に自然と出入りするようになり、20歳も年上のモトと関係を持つようになった。関係はその後10年も続いている。「2人で独立しよう」「家出しよう」というようなことも話し合っていたという。
やがて後藤家は原宿に移り、バス屋を始める。長谷川は銀行を辞め、支配人としてこの会社に入った。長谷川は会社の金2000円を使いこんで忠弘さんから叱責されていた。これは実弟と他の雇人と一緒になって金融をしたものである。
モトの供述はコロコロ変わった。「犯人は幸男。私は見ていた」と言ったかと思うと、「犯人は長谷川だ」とするのである。
やがて起訴寸前の三郎さんが釈放され、一旦は釈放された長谷川が拘引され、共犯として起訴された。
判決とその後
モトと長谷川の取調べは1年10ヶ月かけて行なわれた。
1934年(昭和9年)3月5日、東京地裁で第1回公判開始。公判はモトと長谷川が異なる主張を言い合う泥試合と化した。荒れに荒れた法廷はついに傍聴禁止となった。禁止になったのは、どうしてもモトと長谷川の関係が重要視され、2人が露骨な性表現を言い合うなどしたためとも言われる。
5月26日、坂井改造裁判長は2人に求刑通り死刑を言い渡した。
1935年(昭和10年)10月15日、東京控訴院、長谷川無罪、モト死刑の判決。
長谷川が無罪となったのは次のような理由からである。
「長谷川が犯人であるならモトの供述を信用しなければならないが、彼女の言うことはあいまいな点がたくさんあって、とても無条件では信じられない」
長谷川は3日後に市ヶ谷刑務所を出所した。長谷は1481日の拘禁に対して刑事補償を請求。12月10日に控訴院は1日2円の査定で、2962円が支払われることとなった。これほど多額の賠償金は、国家補償法が制定されて初めてのことだった。
1936年(昭和11年)3月30日、大審院は上告棄却した。モトの死刑が確定した。
死刑判決を受けたモトだが、証拠のない事件だけに司法大臣は死刑執行の捺印をするのをためらい、皇紀2600年(昭和15年)の国を挙げての祝典で、無期に減刑された。同じ頃に減刑された人物に阿部定がいる。
3年後、モトは病死した。事件の真相は灰色のままである。