公式には警察が自殺と断定し幕引きされるも、多くの謎が残る事件
日本が連合国の占領下にあった1949年7月5日朝、国鉄総裁・下山定則が出勤途中に失踪、翌7月6日未明に死体となって発見された事件
事件の経緯と詳細
1949年6月1日に発足した日本国有鉄道の初代総裁に就任したばかりの下山定則(48歳)は、7月5日朝、午前8時20分頃に大田区にある自宅を公用車のビュイックででた。
出勤途中、運転手に日本橋の三越に行くよう指示した。
三越に到着したものの開店前だったため、いったん国鉄本社のある東京駅前にいって千代田銀行に立ち寄るなど、複雑なルートを辿った後で再度三越に戻った。
そして午前9時37分頃、公用車から降りた下山は「五分くらいだから待ってくれ」と運転手に告げ、急ぎ足で三越に入りそのまま消息を絶った。
普段、下山は午前9時前には国鉄本社に出勤し、毎晩秘書が玄関で出迎えていた。
失踪当日は国鉄の人員整理を巡って緊張した状況にあり、午前9時には重要な局長会議が予定されていたため、自宅に確認したところ、「普段通り公用車で出た」との回答に国鉄本社内は大騒ぎとなり、警察に連絡、失踪事件として捜査が開始された。
翌7月6日午前0時26分ごろに足立区綾瀬の国鉄常磐線北千住駅~綾瀬駅間で汽車に踏まれて壊れていた下山の死体が発見された。
失踪後、下山総裁らしき人物はまず三越店内で、次に営団地下鉄銀座線の浅草行き列車内で目撃された。三越店内では、数名の人物たちを伴っていたとの目撃証言もある。
午後1時40分すぎに、遺体発見地点に近い改札で改札係と話を交わした。その後、午後2時から5時過ぎまで、同駅に程近い「未広旅館」に滞在。午後6時頃から8時過ぎまでのあいだ、駅から南の地点に至る線で、服装背格好が総裁によく似た人物の目撃証言が多数得られた。
下山総裁は、ガード下の線路上で、付近を0時20分頃に通過した下り貨物列車により踏まれていたことが判明。遺体の司法解剖の指揮を執った東京大学法医学教室主任は、回収された下山総裁の遺体に認められた傷に「生活反応」が見られないことから、死後に踏まれたと判定した。
また遺体は損傷が激しく確実な死因の特定には至らなかったものの、遺体および現場では血液がほとんど確認されず、「失血死」の可能性が指摘された。
加えて遺体の局部などの特定部位にのみ内出血などの「生活反応」を有する傷が認められ、該当部位に生前かなりの力が加えられたことが予想され、局部蹴り上げなどの暴行が加えられた可能性も指摘された。
朝日新聞記者矢田喜美雄と東大法医学教室による遺体および遺留品の分析では、下山総裁のワイシャツや下着、靴下に大量に油(通称「下山油」)が付着していたが、一方で上着や革靴内部には付着の痕跡が認められず、油の成分も機関車整備には使用しない植物性のヌカ油であった(当時は物資不足で、機関車の油に植物油を混入することは通常行われていたという反論もある)ことや、衣類に4種類の塩基性染料が付着していたこと、足先が完存しているにもかかわらず革靴が列車により轢断されているなど、遺留品や遺体の損傷・汚染状況などに、矢田と法医学教室が「きわめて不自然」と判断した事実が浮かび上がっていた。
特にヌカ油と染料は、下山総裁の監禁・殺害場所を特定する重要な手がかりになる可能性もあるとして注目された。
加えて、連合国軍憲兵司令部・犯罪捜査研究室でアメリカ軍所属のフォスター軍曹より、轢断地点付近にわずかな血痕を認めたとの情報を入手。
そこで微細血痕を暗闇で発光させ、目視確認を可能とするルミノール薬を用いた検証を実施した。轢断地点から上り方面(上野方面)の枕木上に、わずかな血痕を発見した。
その後、警視庁鑑識課を加えたうえで改めてルミノール検証が行われ、轢断地点から上り方面の荒川鉄橋までの数百メートルの間の枕木上に、断続的に続く多数の血痕を確認した。血痕は、最後に上り方向の線路へ移り途切れていた。
さらにその土手下にあった「ロープ小屋」と呼ばれた廃屋の扉や床にも血痕が確認されたため、これらの血痕は下山総裁の遺体を運搬した経路を示しているのではないかと注目された。
しかし、のちの調査で、1946年2月から1948年5月まで所有者から釣り糸製造業者が借り受け、その間に薪割り中に斧で大けがをしたため血痕が付着していたことが分かった。
だが、これらの事実や痕跡・証言と、その分析には科学的・医学的根拠が欠けるものも多く含まれていたこともあり、他殺説・自殺説ともを結論を出さないまま、1949年(昭和24年)12月31日には「下山事件特別捜査本部」は解散となる。
捜査一課は自殺との結論を出し発表しようとしていたが、発表されることはなかった。そしてヌカ油の出所の追跡などを執拗に続け、他殺の線で捜査を続けていた警視庁捜査二課も、1950年(昭和25年)には大幅に規模を縮小、捜査員も転任するなどして事実上捜査は打ち切られた。
1949年(昭和24年)12月15日に、警視庁下山事件特別捜査本部が作成した内部資料「下山国鉄総裁事件捜査報告」(通称「下山白書」)は、1950年(昭和25年)1月に『文藝春秋』と『改造』誌上に掲載された。
自殺と結論づける内容となっているが、矢田喜美雄や松本清張などは、報告書の内容に矛盾点や事実誤認を指摘している。1964年(昭和39年)7月6日、殺人事件である場合の公訴時効が成立した。
時効成立
これらの事実や痕跡・証言と、その分析には科学的・医学的根拠が欠けるものが多く含まれていたこともあり、他殺説・自殺説ともを結論を出さないまま、1949年12月31日には特別捜査本部は解散となる。
捜査一課は自殺との結論を出し発表しようとしていたが、発表されることはなかった。
その後、1964年7月6日、事件の時効が成立し、真相は永久に解明されることはなくなった。